<Against all odds>

ブリュースター B-339 バッファロー、蘭印陸軍航空隊第5飛行大隊第2中隊、August Gerard Deibel中尉乗機、ジャワ〜シンガポール、1941年
    Brewster B-339 Buffalo, Militaire Luchtvaart KNIL, 2-VIG-V. Java - Singapore, 1941 (TAMIYA 1/48)


その昔、英連邦軍マーキングの箱絵も勇ましく店頭に並んだタミヤ製バッファロー、その後なぜか米海軍仕様のみに箱替えされて再版、さらに今度は元の英(等)仕様部品も復活させてのご奉公となりまして。もう米海軍仕様だけになった時点でお宝にしてた旧箱品をどうしてくれると。(^◇^;)   それはさておき。

今回のお題はオランダ東インド(=蘭印)軍所属のB-339C。この機は英国仕様ダークアース+ダークグリーン迷彩ではなく、オリーブドラブ+メディアムグリーンで塗られていたと思しきところに目をつけまして、オランダ側が言うところの「若い葉っぱと古い葉っぱ」色の緑系迷彩にしてみようと。その作業過程で、ネットを掘り進んでいくうちに遭遇した蘭印操縦士達のお話を織り交ぜて、この一種あいらしいとも思える機体が蘭印の空に描いた航跡など辿ってみましょうとの試みであります。

<東インド>

お話をオランダ東インド会社の創立、17世紀はじめまで戻してもいいんですが、それもあまりに冗長ですので、単に香辛料や後の地下資源の交易により、海洋国の発展するアジア領として、ポルトガル、フランスやイギリスとの勢力争いを乗り越えて、20世紀「オランダ領東インド(=蘭印)」が存在していたという程度にとどめましょう。昭和16年12月にはじまる未曾有の戦火に直接関わるのは、パレンバンの地名やロイヤル・ダッチ・シェルなどの社名に象徴される、この地方が生みだす良質の石油資源であったことも既出としておきます。

さて、その欧州本国から遠く隔たった蘭印。かなりの自治権を持っており、その空の防衛にも米国からいくらかの機材を導入して(しようとして)おりました。それらの中にカーチス社のホーク、そして今回の主役たるブリュースター社のバッファロー戦闘機が。この蘭印仕様のバッファローたち、総数で92機もが発注されてはいたようですが、エンジン調達などの都合もあって結局1941年12月の開戦時に間に合って各基地へ展開できたのは30機ほど。蘭印軍としてはその所属機体番号などに工夫をこらし、数種それぞれ数十機ずつ程度しかない機材を、一部では最大で総数2000機以上(!)の航空兵力とケタ違いに見積もりを誤っていたようです。また、エンジンが英国仕様より200馬力ほど強力(後期発注分はさらに100馬力アップしたエンジン)との資料もあるうえに、英機が12.7ミリ4門の武装を12.7ミリ2+7.7ミリ2にしていたり、さらに防弾装備も簡略となっていたためか、英側記録にも「我々のバッファローよりもオランダ機のほうが速い」と。

その蘭印が抱える豊かな油田、この石油こそは南下する日本軍の欲する玉そのもの。ここに、英連邦諸国飛行隊に並んで、蘭印飛行隊もまた防衛戦を繰り返していくのでした。が、結果はすでにお馴染みのごとく、凄まじいばかりの戦勝の波にのる日本、その陸海軍が空に放つ多数の翼がこれまた強力。まさに怒濤の勢いで連合軍勢力を駆逐してしまいます。真珠湾における西太平洋を真紅に染める開戦の響きからわずか3ヶ月ほどで、蘭印も降伏の時を迎えるのですが。

ここでなぜ英連邦機じゃなく蘭印機なのか、それはですね。英連邦各国飛行士達、イギリス本国からの飛行隊もいればニュージーランドや豪州からの隊もおりましょう。それらの人員は、東南アジアからさらに後退して豪州方面やインド方面へ向かい継戦することもできましょう。しかししかし、蘭印軍は後がなかったんですね。本国は既にドイツの支配下にあり、そして長く蘭国東インド領として統治されてきたその土地、その島々で生まれ育った飛行士達が野牛を飛ばしていたんですな。他でもない、蘭印飛行士達は自分の故郷、ふるさとを守ろうと戦ったのでした。そんなことで、過去にアジアのバッファローについて書かれてきた多くが機数の多い英連邦隊を中心に据えているわけですが、蘭印隊を忘れちゃイカンでしょ、と。

<守るべきもの、それは故郷>

シンガポールに派遣され、英連邦の野牛たちとともに戦った隊、第2中隊の9機の中に今回のマーキング例、Deibel中尉機もおそらく。機体側面に彼の名前がはっきり確認できる写真は、あるいは開戦前の蘭印軍装備展示時のものかとも思いますが、いくぶん頼もしくもみえるバッファロー。この3100号機でおそらくはシンガポール防空戦にも参加されたんでしょうね(その時点で胴体後部に英連邦機のスカイ帯に準ずる白帯を描いた可能性あり)。当時の蘭印野牛乗り達の写真をみますと、指揮官でスラバヤ生まれのvan Helsdingen大尉は現地の血も濃いような印象で、内に闘志を秘める感じ、対して部下のDeibel中尉はむこうッ気の強そうな、やはり蘭印生まれの若者であります。1941年の時点で大尉が34歳、中尉は26歳といったところ。中尉は日本だと大正4年生まれにあたりますから、我が亡父と同じ年ですなぁ。

60機ほどのシンガポール防衛英連邦野牛隊に加わった蘭印隊は、同島南部のKallangに進出。van Helsdingen大尉指揮のもと、初陣を飾ったDeibel中尉はいきなり九七戦2機を撃墜。しかし自分もまた機体に損傷を受け、軽傷を負いつつ落下傘降下で逃れます。前後してvan Helsdingen大尉も敵機撃墜を報じますが、いかんせん多勢に無勢。シンガポールを奪われ、蘭印隊は5機のバッファローを戦力として残すのみになりスマトラへ退却、そして次第次第にジャワへと逐われていくのでした。その間、他の飛行士達も多大な犠牲を出しつつ敢闘、どんどん飛行可能な機体が減っていく、しかも翼の12.7ミリは故障も多いなか、マーチン爆撃機を護衛し、あるいは自ら敵上陸船団を爆撃し、そして敵機を体当たりで撃墜する(自分は降下、無事)など故郷を守る気概をみせつけます。予備機や飛行資格を取得したての新人隊員も動員され急速に逼迫する状況の中、Deibel中尉もさらに敵機を撃墜、しかしまたしても自身軽傷を負うという奮戦も。とはいうものの、日本軍の勢いには到底かなわず。なにしろ相手の日本戦闘機隊は、陸ではまだ隼は一部のみながら、九七戦を駆る歴戦の名うて部隊ばかり、海に至っては台南空や3空という、零戦を擁して世界戦闘機隊史上でも屈指の強力さを誇る部隊なのでした。

そしてついに1942年3月7日、飛行可能な蘭印軍バッファローはジャワ島西部南岸のAndir基地に残されたたった4機が全てとなりはててしまいます。英連邦操縦士達はすでに豪州方面への脱出を実行あるいは考慮中。しかし、蘭印飛行士達には後がありません。脱出・継戦するか否か迷うvan Helsdingen大尉のもとに、蘭印軍司令部から届いた1通の通信、そこには苦戦する蘭印地上軍への支援が要請されていたのでした。故郷を守る、その最後の任務飛行に志願した者は残存飛行士達全員。その中から4人を選び出した大尉はふとあらたまり、ひとりを呼び戻して自分がかわります。呼び戻された若い飛行士は妻帯したばかりでした。そして自身妻帯者でもあるvan Helsdingen大尉は、4機のうちでも最も不調な機体を選んで出撃したのです。最後の4機、その操縦士達はvan Helsdingen大尉、Deibel中尉、 Scheffer軍曹、Bruggink軍曹。この4機の攻撃隊を途上で上空から零戦隊が襲いました。Deibel中尉は敵機に命中弾を与えるも、自機オイルタンクを撃抜かれ、低空へ降下離脱、谷間を縫うような低空飛行でかろうじて脱出しましたが、荒天の中で基地へ着陸する際、やはり損傷していた車輪が耐えきれず、機体はグラウンド・ループ状態となって負傷。Scheffer(後に戦時捕虜として死亡)、Brugginkの両軍曹がその後にほうほうの体で帰還。しかしvan Helsdingen大尉機はちょうど35歳の誕生日にあたるその日、帰って来ることはなかったのです。戦後、彼ら蘭印戦闘機隊最後の4人に対し、オランダ政府から高位の叙勲があったとのことで、本国では知る人ぞ知る勇士たちであるようです。ちなみにJan Frederik Scheffer軍曹は1915年1月バタヴィア生まれ、44年5月にパレンバンで死亡。Gerardus Meinardus Bruggink軍曹は1917年8月生まれ、4人の中では最も若く、42年3月の時点では25歳でした。

<君は蘭印バッファローを知っていたか>

ところで、我々日本のヒコーキ少年たちが「バッファロー」と遭遇したのはどこでしょう? それはおそらく、遠い日に読んだサムライ、坂井三郎さんの空戦記が最初なのではないかと。そこには蘭印上空でたった一度のバッファローとの出会いが描かれていて、4機編隊が妙な空域にいて、その1機を不確実撃墜する坂井機の描写が。日付の齟齬もあり、イマイチ両軍の記録が詳細には照合できないんですが、どうも気になる4機編隊なのでした。あるいは、バッファローという機体を知ったその日から、私たちは蘭印を、故郷を守ろうとした彼らにも遭遇していたのかも知れません。

双方の記録からは、坂井さんが撃ち、積乱雲へ突込んで行くのをみたその蘭印野牛機の搭乗者は、2月28日のC. A. Vonck少尉であろうとも言われますが、不意にあらわれた4機編隊、そして被弾して積乱雲へ向かって逃れた1機、荒天の基地へ傷ついた機体を滑り込ませたDeibel中尉のことなど考えますと、ひょっとして、などとも思ってしまうのでした。

<机上の野牛>

キットはほぼ箱からそのままで組み上げを。適宜金属材に置換した部品があったり、形状に不満を感じたカウルを気持ちだけ削ってみたりしただけです。(^^; カウルといえば、銃口がやや寄り目に感じられたので、孔ひとつ分だけ左右それぞれを外側に移動。12.7ミリじゃなく7.7ミリとのことで、少し開口は小さめに。キャノピーは、側面シルエットに多少の違和感を覚えたので、開いてゴマカシ。例によってチョコタンク(仮)のPET 容器で可動部のみしぼりました。

塗装もいつものハイブリッドで、オリーブドラブとメディアムグリーンの迷彩。下面は銀ドープ。この迷彩も、オリーブドラブの明暗2色だとか、下面色はスカイブルーだとかの説もありますんで念のため。マーキングはキットのデカールとAeromasterのシートの混合。サイ(ジャワサイかスマトラサイか迷いましたが、どうやらジャワサイであるらしく。いずれにしてももはやレッドデータの絶滅危惧種。実機写真では「耳」 が描かれてるようなので、キット付属のデカールで)の描かれたこの機は乗員名が読める写真あり、また胴体に白帯まいた3110号機は写真だと「Deibel」よりも文字数が多い感じ。シンガポールで失われたであろうこの3100号機の代替機体、もしくはHelsdingen隊長機かな?と。過去にはこの2機が塗装図等で混同されている感触なので要注意です。

搭乗者名の確認できる写真では階級までは書かれていません。 先にも書いたように、シンガポール進出時もしくは開戦後まもなくに英連邦機のスカイ帯に準ずる胴体後部白帯を記入した可能性あり。 Helsdingen大尉乗機とはっきり確認できる機体はB-396号機、白帯無し、ジャワサイ付き。 ↑上記、3110号機の写真がシンガポール進出時のDeibel中尉とその乗機との説あり。すると3100号機はいずこへ?)

オランダ機は爆弾架を仕様として装備しているらしく、キットの爆弾と一体化された部品から架だけにしてつけてみました。イマイチ(汗)。クランク型のピトー管は、なんと某P名人お手製の逸品を拝領できて使用。そこだけピンポイントで精度が上がってるってのはおいといて。(^^;  風防前の照準環は、1/700艦船用エッチング部品の25ミリ単装機銃の台座を流用。

<そして勇士は空へ帰る>

最終的に、van Helsdingen大尉とDeibel中尉の撃墜記録は両者ともに3機となっていて、いうまでもなくこの方面蘭国飛行士中の最高記録。記録上で彼らが墜としたとされるのは、van Helsdingen大尉が九七戦、零戦、一式戦を各1機、Deibel中尉は九七戦2機と一式戦1機。また最後の出撃をともにしたBruggink軍曹も開戦から蘭印降伏までの間に九七戦と零戦を各1機撃墜しているとのこと。

さて、最後の4機による任務飛行から日数も経たないうちに蘭印は降伏していますが、生き残ったDeibel中尉の戦中についてはよくわかりません(生き残り3名とも捕虜に?)。蘭印降伏時に残されていたバッファローたちは、その後日本の手によって整備され、本国での性能調査の後に展示や訓練などに使われたのはご承知のとおり。そのうちの1機は、昭和20年夏の終戦後、進駐してきた連合軍によってほぼ無傷のまま存在を確認されているようです(立川?)。が、その最終的運命は不明のまま。あるいは今もどこか日本国内の地中で静かにジャワの夢をみながら眠っているのでしょうか。

ただDeibel中尉については、大戦終了後も本国オランダ空軍で飛んでいたのは確かなようで、なぜならば大尉に昇進した彼は1951年にオランダ国内でミーティア搭乗中の事故で他界されているからなのですね。蘭印生まれの彼にとって、本国とはいえ欧州オランダは見知らぬ土地であったでしょう。ふと昔日の思い出が胸をかすめることもあったかも。機体が天翔る棺にかわるその瞬間、あるいは懐かしいvan Helsdingen大尉が迎えに来てくれたかもしれず。

「君はいつも無茶をするから、冷静に飛ばすようにと言ったじゃないか。さあ、もういちど私が飛び方を教えてやろう。バタヴィア上空までひと飛びだ。懐かしい我らが故郷、ジャワの空へ──」

付録。ディスプレイの1案。(^^;  ありがち過ぎ。まいど、お粗末さまでした。m(_ _)m


<参考文献&参照サイト>

# BLOODY SHAMBLES Vol.1&2;C. Shores, B. Cull, Y. Izawa著、Vol.1は92年、2は93年刊、
  Grub Street社、ISBNはそれぞれ094881750X、0948817674。 
  ギリギリで届いたものの、これが実は肝心要の書。1巻めはすでに和訳もでてますが、マレー
  方面からシンガポール、そしてビルマや蘭印の空の戦いを詳述してまして、日付ごとに進む 
  体裁はちょうど梅本さんの「ビルマ航空戦」に類似(こっちが先か)。
  この2巻で日本軍による席捲の様子を、そして間もなく刊行されるはずの3巻でそれ以後を。
  空戦当事者たちの写真が出来るかぎり収載されてるのが真摯ですねぇ。 

# BUFFALOES OVER SINGAPORE ;B. Cull, P. Sortehaug, M. Haselden著、'03年、
  Grub Street社刊、ISBN 1904010326
  上記Bloody Shamblesの著者のひとりを中心に、シンガポール周辺におけるバッファローの
  各飛行隊、各操縦士達の物語にしぼった増補改訂版的な書。

# Brewster F2A Buffalo;'03年、KAGERO社刊、ISBN 8389088142
  デカールもついたKagero本。東欧圏におけるこの手の本は躍進目覚ましいものが。
  ちゃんと英語のテキストもついてるのが吉。上質紙に綺麗なイラスト。

# BREWSTER BUFFALO;'04年、AERO JOURNAL別冊
  全編これフランス語なのがつらいところですが(汗)、なにしろ目新しい写真、それを元にした
  カラー側面図が圧巻。これほどパーソナルマーク付きがあろうとは(驚)。

# PEARL HABOR AND BEYOND ;COMBAT COLOURS Number 4, '01年、Scale Aircraft Modeling社刊、
  ISBN 0953904067 
  1941年12月から1942年5月に至る間のアジア太平洋方面各国軍用機のカラー側面図集。
  おなじみのヒコーキ模型趣味社によるもので、模型作りと航空戦の状況俯瞰には重宝。
  ただし、側面図に使用されてる色調はあくまで目安にしか過ぎないことにご用心。

# http://www.warbirdforum.com/index.htm 内のhttp://www.warbirdforum.com/buff.htm
  おそらくウェブ上で最高のバッファロー情報源ではないでしょうか。今回の蘭印はじめ、
  各国で使用されたこの機種についてかなり深くまで。野牛好きには必須。

# http://www.rememberthemlknil.tk/
  まだ構築中のようですが、やはりこうして蘭印飛行隊を記憶に残そうとするかたが。

# http://www.onderscheidingen.nl/decorandi/wo2/index.html
  第二次大戦中に由来するオランダ叙勲者リスト、だと思うんですが(汗)。なんせ蘭語で。(^^;

(2005年3月16日初出)



SEO対策 ショッピングカート レンタルサーバー /テキスト広告 アクセス解析 無料ホームページ ライブチャット ブログ